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本文のはじまりです。

『調香師の手帖』

2011 年 12 月 1 日

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年の始めに「今年はもう少しアップします」と記したのに、ブログの更新は2月以上の間隔が空いてしまいました、、。見たもの、行った場所から考えたことがたくさんあるのに、どこから手をつけたらいいの?という感じなので、師走になった今、まずは今年の「発見」から。

一つ前のポストで触感について書きましたが、 触覚とあわせて最近とても興味があるのが「嗅覚」です。デザイナーとして「視覚の快適さ」をいつも意識していますが、嗅覚は忘れられがちだなぁ、とふと思い、ではもしも「匂いのランドスケープ」についてもっと意識したら世界はどう見えるかな?と思った。そんな時に手にとって、面白い世界の見方(かぎ方?)を教えられたのが、この本です。

『調香師の手帖(ノオト)』-香りの世界をさぐる-
中村祥二著・朝日文庫 2008年出版

資生堂で長年香りについて研究をし、香水を調香する専門家としての著者が「香りやにおいをめぐる新しい心の文化を模索しようという人たちのために、何らかの意味を持てば」という意図で書き下ろされた随筆です。自身の体験からつむがれた言葉で匂いについて説明したい、とあとがきで語られているように、読みすすむと追体験をしているような錯覚にかられ脳内に匂いが立ちこめる。それがわたしの楽しい読書体験でした。

そして、この本をガイドとして少し実体験をしてみているところです。

ひとつは全く未知の世界だった香水に手を出し始めたこと。
文中で触れられていたある香水の「単一のウッディー・ノートを特徴にした上品で優雅な香り」というものをかいでみたく、そして香水は「身にまとって」みないとその効果を感じられない、ということばに納得し購入。あまりにもビギナーで経験が浅く、他のものとの比較がまったくできないこともあり、感想は「うーん?」というところ。西洋人だと、自分の体が発する匂いと混ざっていわくいいがたい香りになるのかなぁ、わたしは香水に負けている?という気がするのです。もしかすると、香水は自分が楽しむというよりも、同席する他の人たちに向けたメッセージなのかも?と思ったり。

もうひとつは、近年たのしんでいたお香の世界にもう少しだけ歩を進めてみたこと。
お香は同じものを使い続けるよりも、違うものをあいだに使うと鼻が覚醒される、という言葉にふむふむとうなずき、インテリアの一部のように使っている松栄堂の「堀川」のルーティーンに「天平」を足してみました。これはとても興味深い効果で、時に違う匂いをかぐと、慣れ親しんでいると思っていた匂いの新しい要素のようなものに気付いたり、残り香を調整するため使う量を変えてみたりと、自分にとってもっとも心地よい匂いについて、考えさせてくれます。

さらに香木そのものをかいで(専門的には「聞いて」?)みたくなり、でも炭を熾して仕立てる本格的な聞香の手間はおっくうなので、小さなヒーターで暖める携帯式の香炉を試してみました。白檀と沈香の小さなかけらそのものから、すぅっと立ちのぼる香り。これは、驚きです。自然のちょっとした偶然の作り出す物質が、暖められるだけでこんなに強い匂いを放ち、それを古代の人が見つけて大切に使ってきたこと、、、。悠久の時間に思いを馳せるきっかけをくれる香り。つい、他の普通の木はどんな香りを放っているのかな?と手に取るすべての木材をくんくんしてしまうような。

鼻をもっと鍛えたら、自分の周りの感覚地図はかなり違ったものになってくるなぁ、という、不思議な予感をくれた本でした。新しい感覚地図と、毎日のデザインの仕事がどう重なるのか?については、まだまったく予測不可能なのですが。

アルパカに触る・soft touch of alpaca

2011 年 9 月 27 日

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イギリスのノーフォーク州に住む友人がアルパカを飼い始めたのです。行って、触ってきました。

やわらかい、、、。夏の終わりに一番ふわふわの毛を刈ったところなので、長い毛は頭と足元少ししか残っていないのだけど、ふわふわというよりは、ソフトなベルベットをそうっと触る感じ。毛足は短いけれど、毛の生えている皮膚も柔らかいので手触りがふかふかとあたたかく、、、今まで味わった事のない感触でした。

アルパカはとてもフレンドリーな動物です。彼らの放牧されている草地に入って行くと、こちらを観察しながらゆっくり歩いて近づいて来る。人間を怖がっていないようで、興味深そうにくんくんと臭いをかいだりして周りをうろうろする。なのに、触られるのはあまり好きではないようで、ちょっと首をさわったらすーっと離れて行ってしまったのでした。腕をまわしてハグしたかったなぁ。

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触感というのは、いろいろな想像力をかきたててくれるものなのだ、、、とアルパカに触れて改めて気づきました。

わたしには大好きで触りたくなるものがいくつかあって、、、そのどれも、生きているものの一部なのです。日常的に触れられる距離にあるものは、その持ち主(というか、所在場所?)を大切に守ろうと思うし、わざわざ出かけて行って触れるものは、遠くにあってもその存在がわたしを元気にしてくれ、旅に出る動機をくれる。そうっと触れるわたしの指先がちゃんとなめらかでその対象を傷つけないよう、指の手入れしないといけないし、がさつな触り方にならないよう、まずは呼吸をととのえて、、、などと思ったりする。

「触感」がわたしたちに与えてくれる喜びについて、その楽しみをどうデザインに活かすかについて、もっと考えてみてもいいのかも、と思ったアルパカとの出会いでした。

レトロ・ロンド:何度も戻る場所

2011 年 7 月 30 日

レトロ・ロンド」はベルギーのフランダース地方の有名な自転車レース「Ronde van Vlaaderen」の地元をヴィンテージの自転車で走るイベントです。

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ビール祭りをやっているオウデナードの街を出発する初心者向け40キロまたは山坂のきびしい70キロの各ルートは、田園を抜け、風車を眺め、農家の庭先や古道具屋カフェで休憩ができる楽しいコースになっていて、いつも走り慣れている人たちが丁寧に計画し、地元の人たちのサポートを受けて作られていることがわかります。

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車に積んでベルギーに運んだのはこの自転車、1970年代のフランス Gaidou製レディース用ツーリングバイクです。ギアが10段階切り替わるので、坂道もばっちり。太いタイヤで石畳にも対応。

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今までに2度、去年3年前のをこのブログでもレポートしていますが、4度目の参加で石畳を走ることにもだいぶん慣れて来ました。それから、今年はじめてレース用のジャージで走りました。速くもないのに格好だけ決めてるのも恥ずかしい、、と思っていたのだけど、近頃は少しだけツーリング的ふくらはぎになってきたし、やはり快適なので思い切って。

だから、という訳でもないと思うけれど「スタイリッシュなライダー」の3位に選んでもらって、他の受賞者との記念撮影が下の写真です。地域の自転車行政のお役人さん、出発&ゴール地点の自転車ミュージアム館長、市長、ヴィンテージな衣装に身を包んだ牧師さんたちとにっこり。

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「毎年戻って来てくれて、いつもにこにこ笑ってくれて、ありがとう」と表彰の時に言われたのだけど、あまりに心地よい、ゆったりした時間を楽しんでいるので、にこにこせずにはいられない、というのが正直な感想です。例年宿泊しているB&Bの夫妻も素晴らしく、この時期に予約が混んでくると「今年も来るなら部屋をとっておくけど?」とメールを送ってくれる。庭を走っている鶏の卵と近くのベーカリーのパン、お手製ジャムの朝食も忘れられず、「行く行く!」と返信したのでした。

人口3万人弱、小さな「自転車レースの歴史博物館」と古い市庁舎の塔、地元の蒸留所が出店するビール・フェスティバルがある広場、、、観光の目玉はただそれだけの街。でも、周りを取り囲むたくさんの小さな村や町は少しずつかつての石畳を復元していて、80年前のレース写真に写っているのと変わらない風光明媚な田園風景が続く。自治体が主導して自転車道にサインが立ち、難易度と距離からその日のルートを選べる自転車マップが作られ、地元の車も心得ていて気持ち良くサイクリストを優先してくれます。

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ここには、日本の地方にも参考になる「リピーターを生むツーリズム」の原点がそろっている気がします。地元の歴史と生活を大事に思っている人たちが集まってささやかではある場所の良さを育て、心地のよい「体験」を訪問者に差し出す。

今回のレトロ・ロンドでも300人近い参加者の半分ぐらいはベルギー外の近隣国や遠くはオーストラリアから来ていたヴィンテージ自転車のファン達で、たくさん素敵な自転車を見て、風を切ってペダルを踏んで汗をかき、ベルギービールでうるおって、にこにこしながらそれぞれの帰路についたのでした。

わたしのベルギー体験の幸せな締めくくりは、このビール・アイス。少しビターで、もう最高。

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カウンセリングのこと

2011 年 5 月 31 日

震災から2か月後の5月中旬、わたしはまた日本に行きました。海外ではあまり報道されていない、避難所での生活での様子、急ピッチで進む仮設住宅の計画、もっと時間がかかるであろう復興の各地でのプランや団体の動きを聞いたり見たりしました。

そして、実際に現地に行った友人の話やニュースでの報道を見て強く感じたのは、被災地での「心のケア」が、復興のいろいろな側面で今から必要になる、ということです。

家族や友人を失って呆然となった被災者たちも、すぐに将来のことを決めて前に進んでいかなければいけなくなる。目の前で流されていく人たちを見て、助けられなかったと自分を責めていたたくさんの人たちも、気を取り直して今からの生活を立て直す時期になっている。

日本には、プロのカウンセラーに自分の体験や気持ちを話し、専門家の知識を使って「心の復活」を助けてもらう、ということがあまり一般的ではないと思うのですが、今こそ、たくさんの「心の専門家」が必要とされている時だと強く思いました。

***

カウンセラーがどんなふうに「効く」のか、わたしの例を少し話してみたいと思います。

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この写真はロンドン北西の郊外、Stanmoreという場所にある小さな森です。この森を幾度もくぐり抜けてカウンセラーの元に通ったことが、わたしの今の生活を支えています。6年半前の2004年の秋に初めてカウンセラーに会いました。20年一緒に暮らした元夫との関係がうまくいかなくなり、生活と仕事のパートナーシップの両方を同時に解消するという場面に直面して、完全にうろたえていた時に紹介された「職業の関係する離婚問題」の専門家でした。そして、自宅の一室で、紅茶をいただきながら話をするカウンセリングが始まりました。

いつも2人で行動した日々から急に一人になり、何から何まで自分で決定して打ち合わせにも旅行にも独りで行くようになった時、はじめて、自分がパートナーとの共存に慣れ、依存し、その関係の中で生きていたことに気づきました。最初の頃はたびたび頭の中が真っ白になり、何をどう決定するべきか、今日まず何をしたらいいのかすら、彼女に助けてもらわないと思いつきもしなかったことを憶えています。

最初の1年は毎週通って2時間ずつの「応急措置」をほどこしてもらいました。相談することは、山ほどあったのです。

まずは一度、どこかに逃げるべき?それとも現場に踏ん張ってがんばるべき?
将来のことが不安で眠れない時はどうしたらいい?
運転中に急に悲しくなって、注意散漫で事故を起こしたらと怖いのだけど、、?
ビジネス相手に「パートナー解消」について感情的にならずに説明する方法は?
独りでスタジオを続ける自信はどうやったら生まれる?
そもそも、どこでどう間違えて結婚を維持出来なかったのだろう?
こんな「失敗」を抱えたままで、社会はわたしを受け入れてくれるのかな?

少し落ち着いてからは2週間に一度からひと月に一度、その都度1時間半会って、今感じていること、何かをきっかけに起こった感情の変化など、生活と仕事のすべてに関わってくるいろいろな感情と向き合いました。

孫を期待していた親は、今どんな気持ちだろう?
ひとりぼっち感がなかなか去らないけれど、どうしたら楽になる?
見ると悲しくなる、山のように残った二人の写真はどうするべき?
知らずに元夫のことを聞く人に、相手を動揺させないで離婚のことを話すには?
急になれなれしくなった隣人に「あなたは必要ない」と分からせる方法は?
自分の性格を変えないと「次の出会い」なんてないのでは?

時間の経過とともに変わっていく心の動きを受け止め、前向きに将来のことを考えるやり方を、たくさんの専門知識を動員してゆっくりとあせらず手ほどきしてくれたこのカウンセラーの助けがなければ、スタジオをもう一度立ち上げスタッフに恵まれ、今のパートナーに出会って、、、という今の生活を手に入れていなかったかもしれない、と本気で思います。仕事を諦めていたかもしれないし、逆に仕事に没頭して「生きること」を忘れていたかもしれない。

わたしが学習したのは「バランスを考えた生き方」そのものだったと思うのです。

***

離婚という、半分は自分に責任のある別れでさえ、毎日の生活をうまく回せないほどの「感情の揺れ」を体験します。地震と津波で突然、家族や親しい人を失ったたくさんの人たちは今、想像する以上に大きな心の傷を負って毎日を暮らしていると思います。家族や友人を助けられなかった、という自責にかられている人もたくさんいます。しかも、その後の被災地や避難先での生活では、助けられているという遠慮から、自分の心の中の葛藤を表に出さずに抱えこんでいると思うのです。

もちろん、物資が被災地に届くことが何よりも優先されるべきだし、今は街の復興が計画されている時期だと思います。同時に、このたくさんの、ほんとうにたくさんの人たちの心のケアについて、誰かがちゃんと考えて行動を起こしているのか?何万人、もしくは何十万の人たちと会って、それぞれの話を聞き、感じる苦しみはどんなしくみで心にわき起こるのかを説明し、どんなことを試したらその喪失感を乗り越えられるのか、という専門的なアドバイスができる人たちは、日本にどれくらい存在するのか?

心のサポートなしには、被災地が主導するべき復興が外部からの押し付けになってしまうのではないか? 今現場で、悲しみを乗り越えてばりばりと復興のために働いている人たちが、いつまでも心のケアなしに働き続けることを期待するのは間違っているのではないか?

どなたか、心のケアを活動の中心にしている団体をご存知でしたら、ぜひ教えてください。

赤十字や企業、官公庁を通じた寄付金がかなりの額集まっている今、ロンドンで秋に企画しているチャリティー・オークションでの義援金を、カウンセリングの専門家集団や養成団体に直接送る事を考えはじめています。実務の出来るカウンセラーが足りないなら、学科やコース、ワークショップなどを通して専門家を養成する必要があるのではないか?そのための資金が、税金の使い道のひとつにまだ数えられていないなら、どこかから捻出しなければいけない。

***

昨年の春ごろ、わたし自身はやっと「カウンセラーと会わなくても、やっていけるかも」と思いはじめ、写真の森を「復活の森」と名付けました。それでも、相談することはたくさん残っていることにも思い当たり、日々を人間らしく生きる道案内として、今でもひと月に1度は通っています。この森を通るたびに車の窓を全開にして深呼吸をする。どこか、心の隅に無理を強いていなかったか、考えながら走ります。

今から、日本にはたくさんの「復活の森」が必要になってくると、切実に思います。被災者の心のケアが一段落する頃(どれくらいかかるのか、わからないけれど、、)に、現場で育ったカウンセラーが全国に散って専門知識を使える場ができて、多くの人がバランスを考えた生き方について学べたら、、、と思うのです。

祈りと、願い。そして希望。 / pray, wish and hope

2011 年 3 月 21 日

一週間前の日曜日、震災にあった日本を後にしてわたしはロンドンに戻りました。8日間という短い帰国の途中で出会うことになったこの地震と、その後に次々と明らかになる東北地方の被害を目のあたりにして、この事態にわたしは何が出来るのか、デザイナーという職能がこんな時にどうやって役に立つのか、、、それを考え続けています。

***

11日金曜日、わたしは東京のホテルの一室にいました。10階から見下ろしていたビル街で不気味な「びし!」という音がして、はっとした瞬間に視界がわずかに斜めにスライドするような感覚があり、その後に初めて経験するはげしい横揺れ。天井からワイヤーで吊るされた照明器具が大きくスイングする様子を直視できず、低くなって机の下に向かいながら、水の入ったグラスをテーブルから床に置き、湯をわかしていたポットの電源を抜く、、、。

幸いにも、耐震構造のおかげか部屋では何も床に落下せず、壁にヒビも入らず、ホテルの人が見回りに来てくれてひと心地ついたのが、3つめの余震が去った約10分後でした。余震はその後も続き、かなり大きな揺れも数度ありました。携帯電話や普通回線のネットワークは繋がらず、インターネットは?とPCを立ち上げ、夕刻に会うはずだった友人や家族にメールを送り、イギリスの朝を待ってロンドンに住むパートナーにスカイプ経由で電話をしたのが午後4時半ぐらい。その頃には、震源地や揺れの情報、津波が起こったことなどがネットのニュースに乗ってくるようになりました。

暗くなり始めたころ「そうだテレビがある」とやっと気づいてスイッチを入れると、震源に近い東北から送られた衝撃的な映像が次から次へと流れはじめた、、、。

そこからは、他の地域にいるたくさんの人と同様だったと思います。はらはらオロオロしながら、救助で一人でも多く助かることを祈ってテレビの画面を眺める。そして、職場や出先から帰宅のすべがない友人たちに地下鉄やバス、JRからのニュースを、帰宅難民になっている人たちに食べ物や暖房のある避難所の場所をツィッターで流しました。

原子力発電所の津波による被害も早くから伝えられ「電力の供給が減るおそれがあるので、大規模停電を避けるために必要のない電気製品を切りましょう。」とニュースで言っているのに、ホテルから見えるオフィスでは人がひとりも居ない部屋に煌煌と照明がついている。ビルの会社ロゴや広告塔も電力を使い続けている。街路にあるらしい東京都のスピーカーからは一度だけ、落下ガラスの危険があるから屋内に居るように、というアナウンスが流れたけれど、あれを使って節電を今すぐ呼びかけられないの?とやきもきして外を眺めました。

翌日土曜日、友人たちに助けられながら、唯一動いていた京成線の印旛日本医大前経由で6時間かけて成田空港に着き、さらに6時間後の午後8時に翌朝への時間変更が告知される。空港に着いた時に、そのフライトはとっくに飛んでしまったと思ってまず成田のホテルを予約したのでわたしは寝る場所があったけれど、一緒に待ったたくさんの人たちは空室がなく、カウンターで寝袋と毛布を受け取っていました。

この地震後の短い滞在でわたしが目の当たりにしたのは、モラルが高く我慢強い人々が一致団結して交通パニックを回避した東京、帰宅せずに夜通し宿泊客の世話をしたホテルの従業員たち、夜通しインフラを点検補修して市民の交通を取り戻そうとしたたくさんの交通関係者、エレベーターの動かない駅の階段でスーツケースを運んでくれた若者、家族の安否も確認できないままに、日本を発とうとするわたしを助けに来てくれた友人、電池の売り切れたコンビニエンスストアで携帯電話の充電のために延長コードを差し出していた店員、飛行機を飛ばすために長時間かけても空港にたどり着いた客室乗務員たち、彼らのせいではないのに、空港に泊まる事になった乗客に深々と頭を下げた航空会社の人たち、、、。

たくさんの心優しい人たちが引き続き支えていくのだから、日本は大丈夫だ。そう信じることのできた2日間でした。 わたしは自分の拠点に戻って、そこから出来ることを探そう、と。

***

地震から10日経った昨日、NHKの震災番組をインターネットのUstreamで食い入るように観ました。
http://www.ustream.tv/channel/nhk-gtv

こちらの人々が懸念している原子力発電所が現在直面している状況の解説や現場で働く人たちの努力を聞くと、これならどうにかなる、という希望を抱くことができたのは救いでした。そして、番組の後半に報道された被災地の様子は、そんな過酷な状況でどうやってそこまで健気に、、、というものでした。多くの人が、自分も津波に流されかけて九死に一生を得たのに、助けられなかった人たちの苦しみを思って自分を責めている。たくさんの人たちが、そんな後悔と共に生きて生活を再生させていくのだと思うと、何が、どんな喜びが、その感情を超えて幸せをもたらすのだろう?と考え込んでしまいます。

現地にいないわたしが、デザイナーという少し偏った職能を持つわたしたちが、持っているものを使って出来ることは何なのか?

まず一つ目は、世界のたくさんの人たちが、日本のがんばりを見つめて応援している、という事実を被災地の人たちと日本のみんなに伝えること。 そして、やはりこのグローバルなネットワークを使って出来るサポートを、始めることなのだと思います。

下の写真は、チベットのお寺からの写真です。このお寺では、震災から7日目に「千灯明」という法要が行われ、津波の犠牲者の魂を癒すための祈りが捧げられたとのことです。その時のメッセージが、風の旅行社のチベット特派員から寄せられています。この法要は49日まで毎週捧げられるとのこと。わたしもこのお寺に倣い、毎週木曜日に祈りを捧げようと思います。

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「犠牲者の方がたの冥福を心より祈ります。もしも聞き届けられるなら、助けられなかったと後悔している家族や友人に『あなたのせいではないから、わたしの分もしっかり生きて』というメッセージを、どうか送ってくださいますよう」

I was in Tokyo when the earthquake struck Japan and came back to London two days later.   Since then I have been thinking what can I do for that devastating situations.

***

2:45pm, Friday 11 March, I was in a hotel room in central Tokyo.  The view of office buildings from 10th floor window had slid slightly, togehter with sharp cracking noise, then the shake which I have never experienced before.  A lamp hang from ceiling with wire swung badly, I could not see it properly.  I lowered myself, picked up a glass of water and placed on floor, then unplug an electrical kettle I was making a hot water.

The building was amazing.  It swung many times front to back, but nothing was fallen from table or desk, neither in the bathroom.  No cracks were found in the room.  I heard a crashing glass sound in the corridor from a distance.  About 10 minutes and three aftershocks later, a hotel announce told us to stay in the room, then a hotel woman visited my room with first aid box, asked if I was safe.  I felt better knowing that they take care of me.  There were many aftershocks within 1.5 hours time - more than dozen, I think.  Telephone line and mobile phone network were down almost immediately, so I used internet, sending message to my family and skype to my partner in London.

When the atmosphere was getting dark, I realised that there was a TV in the room, switched on and - from then my situation was very similar to many other people in Japan - started to watch shocking images and devastating clips of Tsunami swiped town after town, just hoping as many as possible to be rescued.

Friends in Tokyo started to have difficulty getting home after tube and overrail network suspended for desperate safety checks. I started to receive information of resting places for those commuting refugees, who might walk for long hours in cold weather, then forwarded those information on twitter, in case anyone is benefitted.

The damage on nuclear power plant by Tsunami was reported from the beginning, the electrical company had been asking people to switch off unnecessary light and electrical equipment.  But what I saw in front of my window were a lot of empty offices still brightly lid up together with company sign on top of buildings.  I was wondering any way to use public speakers stood on street, which once gave unhelpful information of seismic scale of the earthquake - 5+.

Next morning, some part of the Japan Rail trains are back for operation, but no express train to Narita airport, as a large area distructed in Chiba prefecture.  My flight was noon. Several friends of mine helped me to check up possible rouite to get to airport, then one found a long round trip to via private rail service to approach Narita from north-western direction.  From the hotel to the airport took me 6 hours, but my flight had not departed yet.  After another 6 hours of waiting for new departure time in front of the check-in counter, on a pile of sleeping bag from a night before, the new schedule was shown for the next morning. I had booked hotel near by already, but many people in the queue received a sleeping bag and a blanket.

What I saw in those two days after the quake were; people behaved morally and avoided the real panic in that concentrated traffic of Tokyo. Hotelmen and hotelwomen who did not go home, but took care their customers overnight.  A lots of rail and road maintenance staffs, who checked safety of transport network on foot.  A young man who carried my suitcase down the stairs in a station where no lift was working.  A friend of mine who has family in stricken area waiting for telephone call, yet came to help me.  A shop keeper who offered an extension line for a mobile phone charge when the battery shelves were empty.  A lots of flight attendances took long way around and reached airport to make those flight possible.

Yes, with those kindhearted people, Japan will be coping this tragedy all right - this is what I believe since those two days.  ‘I have to come back to where I am based and seek what I can do from here’.

***

Last Sunday afternoon, 9pm of Japanese time, I watched via Ustream a TV program to give a thorough report from stricken areas, include the Fukushima nuclear power plants, which has been focused by Western broadcast. The report made me trust those people who are continuously workin, as well as sign of goverment’s openness towards information.

Moreover, the situation of refugee shelters and hospitals in isolated area struck me a lot.  A lots of people, who also had to fight against fallen building and Tsunami water, are in deep remorse that they couldn’t help others, often their loved ones.  How can they come over their deep sorrow of regret - what kind of joy could be brought to them, not always think about their lost?

What can we do to this situation from distance?  How our unique profession as designers can be applied to make a difference?

First of all, we have to deliver message from all over the world, this fact that our thoughts are with them and willing to support.  The tool for this might be the network we have, this global exchange of stories and images.   I wish to deliver warm, creative support to the people in refugee shelters - as soon as possible.

The picture attached is from a temple in Tibet, where a ‘1000 candles prayer’ was given on the seventh day from the quake.  They are sending message to Japan, and will continue their prayer every 7 days until 47th day.  I would follow their way and pray every Thursday for victims - ‘wish your soul can rest in peace, if possible please send your loved ones a message that it was not their fault, they have to live their own life strongly.’

賀正 2011 / I wish you a happy new year

2011 年 1 月 6 日

あけましておめでとうございます。

日が長くなり始めたことが嬉しい新春のロンドンです。昨年はこのブログをあまりアップしませんでしたが、レポートしたい事がたまってきたので今年は少しまめに綴ってみます。今年もよろしくお願いします。

みなさんにとって、2011年が素晴らしい年になりますよう。

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新年の抱負は、、、去年から引き続き『既成の枠を超え、デザインが出来ることについて考えてみる』 でしょうか。例えば、デザインを通じて考え方や価値観の多様性を伝えていけたら、と思います。道のりは長そうですが、時間をかけてゆっくりと、、。

***

I wish you a wonderful new year.

It is nice to notice the day time is getting longer, isn’t it?  I am trying this year to put English text as well, as I realise that I have some non-Japanese readers of this blog.

My new year resolution - Trying to overlook the horizen of what Design is regarded, then think what a designer can contribute to the contemporary society.  I wish to evoke richness of diversity in thinking and value, for example.  It looks like a grand one if I write it down, though…  well, I need to take time to achieve it anyway.

時代はシフトしている

2010 年 11 月 16 日

ふと目にしたモノや会話から『そうか、時代の変わり目に立っているんだなぁ』と思う事が、最近よくあります。

環境資源の限界が広く知られるようになり、今までのように残りを気にせず使うような産業や生産、消費のありかたを続けるのは無理があると、多くの人が考え始めた。そして、人は限られた資源をどう使って次の世代に残すか、今までとは違うスピードで進む産業とどう共存し、何を選び取って生きるかを考える場所に立っている、、、少なくとも、たくさんの人がその事に気付き始めていると思うのです。

それから、スーパーの買い付けなどに象徴される「買いたたき」による低価格競争。英国のミルク産業でも起こっていることですが、設備に投資をして効率良く大量に商品を送り出せる会社だけが生き残り、効率以外の価値を守ろうとしている良心的な会社は淘汰されてしまうような現状。これは先に挙げた環境への配慮とは逆行する、大量にエネルギーを使うことになる事業形態が生き残るという、不本意な事態を引き起こしています。

そんな矛盾も起こっているいろいろな流れの中で、岐路に立っている「今」をよく現していると思うのがマッチです。

わたしはスタジオでも家でもお香を焚くし、自宅での夕飯はキャンドルの灯りで食べるのでマッチは日常の必需品です。そのマッチの、頭の部分が小さくなっている?と思い始めたのは2年ぐらい前だったと思う。それが、あっと言う間にどんどん小さくなり、最近のはこんな感じです。

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比較すると分かりやすい。左は15年ぐらい前のマッチ。真ん中が4年前ぐらい。右がごく最近のものです。

この変化に、考えさせられました。

低価格競争が広がり、今まではあまり考えずに使っていた頭薬の原料すら、切りつめないと原価割れを起こすようなことが現場で起こっているのではないか。買い付ける側が値切りに値切った結果、製造元で「これでは儲けが少ないから、この素材を少なめに付けてみる?」ということになり、試作したらこれでもちゃんと火が点いた。そうやって低価格を実現し取引を勝ち取った会社を見習い、他社も頭を小さくしていく。そしてこの頭が今のスタンダードになったのかもしれない。

使い比べてみると、頭薬が小さいぶん発火の炎が短いので、気をつけて柄の部分に火を移さないといけないけれど、すぐに慣れて不便は感じない。そうか、今までは余分な材料を炎にして燃やしていたのか、、、と、マッチが発明されて以来の長い年月のことを考えてしまうほどです。そして、この小さな頭のマッチがこれからの標準になって、もう大きな頭のマッチを見ることはないのだろうな、これからはそんな社会に生きていくのだろうな、と。

面白いのは、この変化があまりに短期間に起こったので、今でもマッチを描こうとすると、従来の大きな頭の絵になること。下の写真は、この夏にベルギーのスーパーで買った、まさにそんな変化のまっただ中にあるマッチ箱です。

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将来の子供たちは、小さな頭のマッチの絵を描くようになるのでしょうか?わたしたちは、資源を浪費した過去への反省として、大きな頭のマッチを思い出すのでしょうか?

毎日マッチを使う身としては、小さな頭での発火を柄に移す、ちょっとしたコツを身につけたことを嬉しく思ったりしています。冬に、日が暮れたらカーテンを閉めて昼間の熱を逃がさないよう気をつけるとか、厚手の鋳物の鍋で余熱を上手に使って料理するとか、ひと昔前には「節約」として普通に気をつけられていたことは、実は環境にも優しかった。暮らしの小さなディテールや「おばあちゃんの知恵袋」をひとつひとつ思い出し、今まで忙しさの中で走り飛ばしていた小さな「コツ」を身につけ直すのが、今の時代に必要なことではないかと、マッチを見つつ思うのでした。

3度目のレトロ・ロンド

2010 年 7 月 1 日

みなさん、お久しぶりです。もう日本時間では7月1日ですね。なんと、2010年も半分が過ぎてしまいました。「光陰矢の如し」とは、まさに。

design-hug のトップページが一昨年5月で止まっていることに憤慨して半年も更新しなかったのですが、wordpressのカスタムCSS費用ぐらいは払い続けるみたいなので、ブログは続けることにしました。ブックマークしてるみなさん、HPトップではなく、このブログのトップに。

さて、本題です。
ベルギーのヴィンテージ自転車のイベント「Retro Ronde」に参加しました。2年前にも一度ここでレポートし、今年が3度目です。今年の自転車はこれ。昨年末に入手して以来、調整をかさねて快適な乗り心地になってきたフランス1947年製René Herse。

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自分にぴったりなサイズの自転車に出会えたことがまず嬉しいのですが、これは本当に素敵な自転車なのです。ギアの入れ替えにも慣れ、これなら苦手な石畳もOKだろう!と、前日にコース近辺を走ってみました。

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「郷に入れば郷に従え」で、まずはビール。 午前中からサイクリスト達が立ち寄る地ビールのバー。。。

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ツール・ド・フランダースで有名な石畳の急斜面は、土曜日にはフリー・マーケットが出ていました。押して歩くのさえ息があがるのに、雨の中(ツール・ド・フランダースは春先で、いつも雨が降っている)ここを自転車で登るレーサーって、マゾ?

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30キロぐらい走り、全身がぶるぶる震えて視界がかすみ頭痛すらしてくる石畳に悲鳴をあげながらも、徐々に慣れる。夜は翌日にそなえて肉を食べました。ポテトフライにマヨネーズをつけるのがベルギー風。

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翌朝は雲ひとつない快晴。オウディナードという街の市庁舎の隣にある自転車博物館からスタートします。

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広場に集まるヴィンテージ自転車自慢たち。こんな木製ホイールでも、この人たちは70キロの坂道コースを走るのです。地元ベルギー人の他にもイギリス、ドイツ、オランダ、フランス、イタリア、遠くははるばるオーストラリアからも参加していました。

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レトロな牧師さんに自転車と一緒に祝福され、市長の前で誓約書にサインして出発です。

こののち、わたしは石畳2キロをふくむ40キロのコースを走り、途中で飲み物とイチゴやアイスクリーム、ケーキなどの出る休憩所を3カ所経由。その間は、友人たちの後を追うのが必死なので、ほとんど写真を撮っていません。ふとももの筋肉痛が薄らいできた今日、Retro Ronde 2010のアルバムで自分を見つけました。オウディナード市が協賛し、若いオーガナイザーと近隣の人たちに支えられた、手作りで気持ちの良いイベントでした。

たくさん汗をかき、素敵なヴィンテージ自転車をたっぷり見て、翌月曜日に自転車を積み込み帰路につく。昼食は美味しいビールの醸造されている修道院のカフェです。

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ハムのビール・ゼリー固めと甘めのピクルスがよく合う。この後、「ビール・アイスクリーム」というのを食べました。少しだけ苦味のあるビール味はとっても美味しかった!なのに、写真撮るのを忘れてた、、、。

今回の旅でも、一番印象に残ったのは自転車をとりまくベルギーの施政のこと。自転車レーンが都市部と郊外、そして田園まで整備され、自転車ルートを示す番号が角かどに立って、専用のマップで事前にナンバーを書き出しておけば、地図を見なくても延々走って行ける。車や農業トラクターでさえサイクリストに慣れているから、どこでも気持ちよく道をゆずられるのです。修道院などの観光地にもたっぷりの数の駐輪施設があって、大きなグループでも心配なく自転車を停めて休める。

これはとても進んだ文明の姿なのでは?と、ベルギーを訪れるたびに思うのです。石油を使わなくても、楽しく遠くまで移動できる、そんなレジャーのための道路を作った行政。イギリスや日本にはまだ存在しない、50年後(25年後かも?)の週末の風景。。

賀正 2010

2010 年 1 月 4 日

あけましておめでとうございます。

コペンハーゲンでは人類はあんまり賢くないことを露呈し、ざわざわしたまま終わってしまった感のある昨年。
それでも希望を捨てないで、デザイナーとして出来る最善のことを今年は意識的に選びとっていきたいと思います。
今年も、どうぞよろしくお願いします。

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このdesign-hugですが、わたし以外のブロガー達がまったく更新していないのと、表紙が2008年夏で止まっているのをどうにかして〜!と年賀状で訴えました。このすっきりしたweb紙面とwordpressのコントローラーが好きなので、続いて欲しいのだけれどなぁ。。。

他のみなさんの更新を楽しみにしています!

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年明けより、一気に寒くなったロンドンの冬景色を載せます。昨夜はマイナス3度という予報だったけれど、樹氷が出来ているのはとても珍しいので、もっと下がったのでは?と思っています。通勤に使う車はヘッドランプやボンネットが凍ったまま、30分運転してスタジオに着いてもそのまま真っ白でした。

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起き抜けに窓から見た、裏庭とそれに続くEpping Forestが白い。

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寒いけれど、日照時間は冬至からほぼ2週間を経て確実に長くなっていますね。森の草花や動物と一緒に、春が早く来い〜!と待っています。

ウィリアム・ド・モーガン展:William De Morgan

2009 年 11 月 22 日

先日ここに書いたエキサイトの「これ、誰がデザインしたの?」を遡って読んでいたら、日本滞在中に見逃してしまったらしい汐留ミュージアムでのウィリアム・ド・モーガン展のことが紹介されていました。

イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動でウィリアム・モリスと一緒に中心的なデザイナーだったウィリアム・ド・モーガンの作品が多数展示されているようです。まとめて見るチャンスを逃したのは、残念。実はド・モーガンのいくつかの作品は身近な存在なのです。

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毎朝、顔を洗う洗面台にタイルが2枚、置いてあります。パートナーが何年も前に買ったもので、タイルとほぼ同じ頃に建てられた家によく合っています。キッチンに飾られている絵皿もド・モーガンの作だと知ったのは最近になってからですが、これらはどれも、真ん中で割れていて裏から金属のピンでくっつけてあったり、一部分欠けてなくなっていたりして骨董価値はないらしい。そういう状態のものなら今でも古物屋に出回るらしく、友人宅でもこの色合いの皿を見たことがありますが、どれも装飾的だけれど表情のある動物や鳥がいきいきと描かれています。

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スタジオと家のちょうど中間あたりの街WalthamstowにあるWilliam Morris Galleryに行くと、アーツ・アンド・クラフツの家具やタペストリーやガラス器などと一緒に、ド・モーガンのタイルも展示されています。

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右下の野うさぎがかわいい。けれど、これは繁殖期にボクシングのような戦いをして、勝った方が力を誇示している図柄らしく、たしかに左の野うさぎは 表情がしょぼんとしています。ここはウィリアム・モリスが生前に住んでいた家がミュージアムとして公開されているもので、ステンド・グラスや内装も残され、当時のたたずまいが楽しめる場所です。

ロンドンの西のChiswickにはド・モーガンのタイルが今も残っているパブ The Tabard Inn があって、近くに行くと寄ることがあります。ここに描かれているへびは迫力です。

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前述の「これ、誰がデザインしたの?」の記事ではじめて知った Leighton House はミュージアムになっていますが、現在改修工事中で2010年の4月に再公開するようです。ここにはド・モーガンが監修をし、彼のタイル作品のルーツだった中東のタイルでびっしり装飾された部屋があるみたいで、春になったらぜひ行ってみようと思います。

秋の深まってきた今の空気とド・モーガンの使ったターコイスやれんが色の色調がぴったり合うからか、なんだか芋づる式に興味のわいた記事でした。紹介されていた「Spooks」というテレビシリーズのYouTubeもいくつか観たけど、ロケーションとなったLeighton Houseは確認できず。あと何本か観てみようかな。

パナソニック汐留ミュージアムでのこの展示は12月20日までやっているようなので、まだ観ていない方はぜひとも。

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